緩やかな記憶 1

大学を出た年、友人を亡くした。
夜中にかかってきた電話で訃報を聞いた。
彼は横浜の映画学校に通っていた。
同じ東京にいながらあまり会うこともなく、
その連絡も札幌からもたらされた。
明日が通夜だという。




彼は高校時代に付き合っていた人。
ジョン・レノンが大好きだった。
高校生の頃、私は少なくとも
音楽や映画や本の上で
彼の影響を受けた。

始終一緒にいたい、登下校も一緒にいたい……。
部活があっても、掃除があっても【必ず待っているから】。
そういうことが苦手な私は、どんどん彼から心が離れていった。
そのことが彼もわかったのか、下校のバスの中で胸ぐらをつかまれ、
怒鳴られた。彼の双子の弟たちの姿が見えた。
地下鉄駅近くの喫茶店で【もうつきあえない】と切り出した。

中学から親しかった男の子と私は同じ高校へ進んだ。
クラスは別々だったものの、二人の友人の輪がつながり、
男女10人くらいの緩やかなコミュニティが出来た。
特別仲が良かったわけではない。
何かを一緒にしたと言うわけでもない。
ガレージでのバンドの練習を見たり、
登校拒否に陥っていた友人を毎朝迎えに行ったり、
学校帰り、喫茶店で何時間もおしゃべりしたり……。
とても居心地のよいつながりがあった。

彼と私はその中にいた。

喫茶店で別れたあと、
私があの居心地のよい緩やかなコミュニティを壊したと思った。
高校3年の夏。

一年の浪人を経て東京で暮らし始めた。
そのころ、友人の男の子から彼も東京にいることを聞いた。
横浜の映画学校に行っているという。

胸ぐらをつかまれるという劇的な修羅場を演じたものの、
すでに2年以上たち、少し大人になっていたのだろう。

かつて緩やかな時間を一緒に遊んだ友人たちと東京で再会したとき、
彼もその場に来ていた。

誰かが帰省すると、みんなで集まり、騒いだ。
誰かが上京するとまた集まった。
一人が沖縄拳法の試合に出ると聞けば応援に駆けつけ、
一人がレーサーになるといいだせば、みんなで相談にのった。

私たちは再び友人としてつきあい始めた。

【ドキュメンタリーを撮って評価された】
【今村昌平監督の映画の手伝いをしてきた】
いつしか、映画監督になりたいという彼の夢は、
私たちの夢にもなっていた。

【エキストラで出てくれないか?】
そう電話があり、大学の友人を連れて横浜へ出かけた。
彼の映画仲間やら、エキストラやら、人ごみの中でメガホンを撮っていた。
学校の課題を撮っていたのだろうが、ついにその作品を見ることはなかった。

【林海象の助監督をやっているらしい】
大学を出て、それぞれが働き始めた頃、そんな話が流れてきた。
【着実に前へ進んでいるんだね】

その後、入ってきたのが【亡くなった】という知らせ。

信じられなかった。
東京の友人に、札幌の友人にと、電話をかけまくった。
一人で部屋にいられなかった。

通夜の席、双子の弟たちがこちらを見て会釈をした。
一瞬、その顔を見たとき、【なんじゃ、嘘じゃん。生きているじゃん】と思った。

双子なのに双子同士より、一人の弟は兄である彼のほうと似ている。

やはり彼は棺のなかにいた。

不思議な感覚。友人が死んだ。もういない。
いつもの仲間の姿が見える。でもそこに彼はいない。

親族の席に高校の同級生が見えた。
彼女は高校卒業後、彼とつきあっていた。
うなだれ、丸まった背中が小さく震えていた。

私たちに気がつき、こちらに駆け寄る。
彼女を見て私は驚いた。
両手の指には彼から贈られたのだろう。
小さな指輪を何個も身につけていた。
通夜の席に不似合いなその指輪が、なぜかとっても悲しかった。

仲間といっても、男同士のつながりの中に入って行けなかった私は、
心配をしてついてきてくれた友人と渋谷の街に出た。

居酒屋のトイレのなかで水を流しながら大声で泣いた。

彼が亡くなった日は、私の誕生日だった。

以来、友人は私の誕生日を忘れない。
そして私も一生、彼を忘れないのだろう。

彼が映画監督になるという
私たちの夢もそこで終わった。

Life is beautiful!Life is wonderful! byc0052630_15375963.jpg

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by maltsmam | 2005-08-18 15:20 | ◎more
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